博多織

1235年(喜禎元年)、33歳の満田弥三右衛門は、弁園和尚と共に宗(南宗1127〜1279)明州へ向け博多の 津を出発。宗に6年間滞在し、織物、朱焼、箔焼、 そうめん、じゃこう丸の5つの製法を修得し、1241年(仁治2年)満田弥三右衛門、弁園和尚(聖一国師)と博多の津に帰ります。博多に戻った弥三右衛門は、 これらの製法を博多の人々に伝えましたが、その中の織の技法だけは家伝として、広東織と称して独自の 技術を加えながら伝えていきました。

さらにその250年後、弥三右衛門の子孫、彦三郎が 再び明へ渡り、織物の技法を研究。帰国後は、竹若 伊右衛門と工法の改良を重ね、琥珀織のように生地が厚く、浮線紋や柳条などの模様の浮でた厚地の織物を作り出しました。そしてその織物が作られたこの土地、 博多の地名をとって、「覇家台織」(はかたおり)と名付けられたと伝えられています。
現在はライフスタイルの変化とともに、HAKATA JAPAN、帯、ネクタイ、緞帳など新しい展開をして

 います。

 

博多の芸妓

博多に芸妓が登場したのは江戸時代の中頃以降といわれている。

大阪の芸妓が長崎の茶屋などに招かれて客を楽しませたが、長崎での滞在は百日以下と定められていたので、一時博多などで稼ぎ、再び長崎へ戻った。その中から博多に定住する者が出て、それが博多芸妓のルーツになったといわれている。

 明治、大正時代には、博多の芸妓はおおらかできっぷがいいとの評判で世に知られ、200名を超える芸妓を抱え、料亭も東京の築地や日本橋と並び称された。 昭和初期には、金融恐慌のあおりを受けたが、1937(昭和12)年には884名と昭和期のピークを記録した。現在 22名  「博多の芸妓」引用 http://www.media-.or.jp/h_kenban/main.html

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